自分と自分の関係が悪いという話

日本社会の諸問題の原因は、
自分が自分でいることが許されない
というところに最終的にはすべて帰結すると思うが、脈絡もなく、思っていることを並べていくか。
 
早い話が、自分を尊重できなければ他者など尊重できるわけもないので、他者優先、という観念は最初から破綻している。
 
が、「自分を尊重」が、なぜか知らないが日本語だと「自分勝手」という言葉とあまり意味が違わないようになっていて、よくある「個人主義批判」みたいなところにすぐ行き着いてしまう、というトリックがある。
 
でも、それが「自分勝手」だろうが「(日本語社会で使われている悪い意味での)個人主義」だろうが、そもそもそれらがいけない理由がよく判らないな。
 
と書いていて判ったけど、「自分勝手」な行動を他人にされると腹が立つ、ということは、その前の段階で、やっぱり、
「自分で自分の声が聞けていない」
からだろうと思う。
 
つまりだな、常々、自分で自分の声が聞けて、あるいは少なくとも聞く努力はしていて、意識がちゃんと自分に向いていたら、他人が勝手なことをしているのを見ても、ただ自分に忠実である、けれどちょっと行き過ぎたのかな、くらいにしか思わないはずだ。
 
このたとえだと判りづらいので別のことで同じことを言うと、たとえば、怒りを感じる相手、嫌いな相手、というのは、たいがい、自分で抑えつけている自分のある面を持っている人、であることが多い。
 
たとえば、時間にルーズな人に異様に腹が立つ、とする。
そこには、自分はいつもがんばって時間厳守なのに、という怒りがある。
つまり、自発的に、自分の本質的に、時間厳守でいるのでなくて、いやいや時間厳守をやっている。
つまり、ほんとは
「ちょっとくらい時間にいい加減でもいいじゃんね」
という自分が、ほんとはいる、けれど、それを自分で抑えつけてしまっている、ということだ。
 
そういう、自分で自分を抑えつけている、という状態にあるとき、その抑えつけていることを自由におこなっている他者を見ると、たいへんに腹が立つ。
 
自分を尊重、とか、自分勝手、も同じことであって、最初に、自分を尊重できていない自分がいる、ので、他者が自己をきちんと扱っているのを見ると腹が立つのだ、自分はできていなくて、ほんとはそのことに悲しみなり憤りなりがあるので。
 
 
さて、上記のようなことを、自分と自分の関係が悪い、つまり、自分で自分の扱いかたがよくない、ということだとしよう。
 
自分と自分の関係が悪い状態で、他者との関係がいい、ということはない。
表面上は問題ない、ということがあるが、それは何らかの「技術」でカバーしているだけなので、いつかは、あるいはどこかでは、絶対に弊害が出てくる。
 
思うけど、自分、と言うか、まあ心ってものほど正直なものはないので、頭が一生懸命
「こういう場面ではこういう行動が社会から要求されているから」
と、まあ、これを「技術」と言うのだけど、そうやってあらゆる場面を頭(頭に内在する社会)の要求する「技術」で乗り切っていても、心は数十年は我慢してくれるけれど、いや、実質は、我慢するふりをして、いろんなとこで小出しに
「技術でごまかすのはいやだ」
ということを表現している。
 
で、それが数十年たまると、
「もうむり」
なことを出してくる。
おっきな問題を出してきて、
「もうこの生きかたはむりですよ」
と教えてくれる。
体壊すとか。
 
日本語で「無理がたたる」という表現があるが、まあ、そういうことです。
が、私はほんとは心は無理自体ができないと見ていて、ほんとはいつでも
「これは無理なんですが」
ということを言い続けている。
のだけども、それを厳然と無視するものがあって、それが、「頭(思考)」です。
 
だから頭主導になると、人間はそのうち破綻する。
で、破綻する前に、いろいろと、他人に訴えたり、そういう人数が多いと社会問題化したり、そういうことをちまちまやりながら、人間社会は形成されている。
 
 
人間は、自分で調達できないことは他人から奪い取ろうとします。
つまり、自分で自分を尊重できないと、他人に
「おれをそんちょうしろ」
と要求します。
あるいは、自分で自分が認められないので、他人に
「おれをみとめろ」
と要求します。
女性の場合だと、これが「愛」の問題になってきて、
「あいしてえええええ」
になることが多いです。
 
まあでも平たくならして言うと、どっちにしろ「自分と自分の関係が悪い」ので、それを他者を使って是正しようとする、ということが、たいがいの人間関係の問題のもととなっています。
 
 
ほんとはこの件は、child pornographyの問題を考えていて、書いていることなんだけど、いわゆる「他者への承認要求」の問題が、どうしてこう性的なことに絡んでいくのか、そこが、日本社会にいて、ちょっと判らないし、正直、不気味だな、と感じるところです。
 
でも、ちょっと考えてみると、違う社会、たとえばアメリカのドラマを観ていると、「おや」と思うことは、多々ある。
で、こないだうち「CSI」を観ていたんだけど、
「sexual assaultは性行為ではない、暴力行為だ」
という感じのせりふが出てきたことがあり、これも、日本社会における、まあはっきり書くけど男性の、性の問題と、恐らく根は同じだろうと思う。
(child pornography、sexual assault、という言葉を使ったのは、その部分を日本語やカタカナ英語にするとへんな人が来るので。)
 
「sexual assaultは性行為ではない、暴力行為だ」
というのは問題の矮小化ではなくて、本質化だととらえています。
暴力、あるいは、他者の支配、という言葉も使っていたかも知れませんが、つまりは自分が優位に立つ、つまりは他者から承認を奪い取る、という行為です。
 
だから、性欲、というものを、それとは別に考えなければいけない、というのは、恐らく日本では全然認識されていないことだと思うが、本質的なことを言うと、性欲、が不気味なのではなくて、そこに暴力と支配欲がくっつく、というのが、男性の性の問題を厄介にしている元凶だと思う。
 
男性の女性蔑視は、ほんとは「自分と自分の関係がよくない」というところから派生しているけれど、もうちょっと前の段階を言うと、つまり、性欲、あ、ここでは、ヘテロセクシャルの話だけをしています、ヘテロセクシャル、「男性→女性」という方向での性欲に関して、男性が、性欲と支配欲(つまり自分が自分を認められない)を混同していて、性欲を持つことに、深いところでは罪悪感があり、その体現である「女性」というものは、その、自分の罪悪感を想起させるものであるため、女性を嫌悪する、軽蔑する、ということが出てくる。
 
つまり、ほんとは軽蔑しているのは自己の支配欲と絡んだ性欲なのだが、男性は特に自分を見つめるという作業が困難なため、それを他者(女性)に転嫁する、ということが、どうしても出てくる。
 
 
で、日本の場合は、男性に限らず、女性も、「現実をみる」ということが大変苦手です。
もちろん、人間である以上は、別の社会でも
「自分の見たいものだけを見る」
という傾向は、脳の性質上あるにはあるが、日本人は幻想に入り込みすぎる。
 
現実、ってのは、ミクロなんだよね、で、ミクロ単位で、ひとつのものとひとつのものと定義して峻別して考えていく、ってのが、すごおおおく日本人はできないんです。
 
さっきの、性欲と支配欲を分けた話、でもそうなんだけど、そうやって峻別する、という作業が、この社会にはとっても欠落していて、いろんなものが混然一体になっていることで、人間がとても混乱している、と感じることがある。
 
違うものを同じと言い張る、ということが、よく起きる。
私の頭は「一対一」で対応した理解しかできないので、ここでよく日本社会に対応できない、と思うことがあった。
それは私が「柔軟でない」ということになるのかも知れないが、違うものは違うので、同じと言われても、困る。
 
日本人の脳は、最初に「大きく分類」をして、「個」をそれにあてはめていく、という考え方の順序がある。
(日本語からきている性質です。住所の書き方で判ると思う。)
 
だから、最初に「個」を、その単体として見つめる、というのがたいへん苦手で、その「個」は、たとえば人間であれば、男なのか女なのか、何人(なにじん)なのか、何歳なのか(この、年齢ってのはほんとに日本社会に顕著だよな)、仕事は何か、稼ぎはいかほどか、みたいな、分類からみていく傾向がたいへん強い。

だから最初に「個」があって、その「個」と一対一で対峙する、ということが、まあ言ってしまえば、できない。

さっき日本語の性質、と言ったが、論理だての順番、と、あと、発音においても、
「分類してしまう」
という性質があって、それについてはいつか書きたいと思う。
 
今は論理だてについてだけ言うと、日本語は前提ががーーーーっと先にきて、で、あとで「だからこうなんじゃないかな」という結論がくる。
結論があとであることよりも、前提を最初に述べなければならない、というところが、
「最初に大きく分類する」
ということと同じで、より、こっちのほうに、日本語人の特質が現れていると思う。
 
前提、分類、が先にくるので、「個」に分け入るころには、おおげさに言うと知力が枯渇していて、まあ、分類した属性で判断すればいいや、というところに落ち着いていく。
 
就職活動なんかほんとにこんな感じで、いまだ、履歴書に写真が貼られ、性別が書かれ、ということが横行し、また、「年齢切り」が平然と行われているのも、分類が最初、というところからきていて、また、たぶん、この分類、ってのは、らくちん、なのだと思います。
 
だって、自分で考えなくていいものね。
履歴書みて、属性でどんどん判断できたら、すごおおくラクでしょう?
 
まあ人事にいる人がこれ読んだら、怒るかも知れないし、みんながみんなこうやって「人選」してるわけではないと判るし、出身大学ってのがいろんなものを決定するのは日本に限ったことじゃないが、ま、思考の順番としてね。
分類が最初にくる、という大きな特徴がある、という例です。
 
だって、日本の、年齢幻想、性別幻想、学歴幻想、肩書幻想、どれ取っても、「分類」で思考が終っている、としか思われない。
 
だから、現実に分け入っていくのが、ちょっと、不可能なところがある。
でも、残念ながら、現実をそのままみる、というところからしか物事はスタートしないので、そのステップが社会的、思考的に存在しない、となると、どうしても、幻想に浸る、ということに、人間の脳は使われることになると思う。
 
 
自分を見つめる、と言うか、自分のほんとの声を聞く、ということと、現実をそのまま見る、というのは、基本的には同じことで、と言うのは、ちょびっと勇気のいることだからです。

自分はこうです、現実はこうです、というのをありのまま認識して、しかもひとに言うとなると、「見栄」というものが出てきて、そっちが優先される。
 
見栄については別に日本人独特でもないだろうが、ただ、最初に「前提」と「分類」をする、という思考の順番からすると、最初に「自分のなかにある前提」が来て(これは人間誰しもそうなんだけれど、ただのバイアス、という以上の「前提」が日本語脳には存在する)、それに、現実が合致しているか、という作業が、次に来る。
 
前提、分類、という段階が最初にくる言語で脳ができているゆえに、それ以外の言語の人たちより、
「自分の前提に合わないものを排除する」
ということが容易になってくる。
 
でも、心や魂は真実をいつでも知っているので、頭が、
「これは自分の前提と合わないから信じない」
という判断を下しても、心や魂は、
「え、なにそれ」
と思っています。
 
だから、他者から自分の意見と違う意見(たいがいは日本の外では普通と思われるような意見)を言われると、ほんとは不安なので、自分を守るために、ものすごい屁理屈が登場し、感情的になり、相手を叩き潰すまでやめられない、ということが起きてくる。
 
つまりね、心や魂を、ほんとうには騙せない、というところが、やっぱりあらゆる問題の発露の原因なんです。
 
でも、頭は騙せる、と思っている。
自分と自分の関係が悪い、ということです。
そこで、外部にいろんな要求をします。
俺(私)が正しいと認めろ、認めろ、認めないのは許さない。
そしてなぜなら、それは、認めてもらえないと、恐ろしいから。
という理由が、ほんとうにはあります。
 
でも、そこ(認めてもらえないと恐ろしい)を見つめるのがまた、特に男性は困難である。
「こんな自分ではいけない」という縛りが、社会的にきつすぎるのです。
 
「こんな自分を認めたら死んでしまう」
みたいな恐れは、みんな持っています。
育ってきた過程で、こうしたらうまくいった、こういうふうにしたら親が罰してきた、など、幾千もの条件づけが個人のなかにあり、そのなかに、どうしても認められない自己像、というのができてくる。
 
たとえば男性で、ほんとは穏やかに、自分がきれいと思うものを眺めて過ごせたらそれが一番幸せ、という本質の人がいたとしても、その人が子供のころに、たとえば公園でパンジーを嬉しそうに眺めていたら、親から
「男の子はみんなと野球しなさい」
と言われ、そこで何とも思わないならいいが、たとえば個性(ほんとはこれも本質とは違うが)で、
「自分がやっていることは否定される」
という感性を持っていると、
「自分のやりたいことは認められない」
というのと、たまたまそのときやっていた、花を眺める、という行為がくっついて、
「あ、花を眺めていると、お母さんが、男の子は別のことをしろと言うんだ」
という誤解が成立してきて、きれいなものが好きな自分、を封印してしまいます。
 
こういう誤解が、頭のなかには幾千もあって、特に、
「自分はこうであってはいけない」
という禁止はとても強くて、なぜなら、
「この自分でいたら受け入れられない」
という恐れはとても強いものであるからで、たとえば↑の男の子の例ならば、大きくなったときに、逆に友達に、
「おまえ花なんか好きなのか」
とか揶揄したりするようになる。
なぜなら、自分に封印しているからです。
だから、最初のへんに書いたけど、他人が自然にやれている、というのは、許せないのね。
 
で、たとえば、自分が封印したきれいなものが好き、という感性と、何だか、たおやかさ、と言うか、まあ安易に言うとやさしさがくっついていて、さらにそこに弱さがくっついていると(こうやって人間のあたまは別のものを一緒にくっつける傾向がある)、たとえば自分を見つめる、みたいな作業を、この男性が意を決してやろうとしたとしても、自分のやさしさ、穏やかさ、弱さ、みたいなところに接近するような考察の段階に入ると、とたんにすごい抵抗が潜在意識から出てきます。
自分のやさしさ、弱さ、というのは、
「認めてはいけない自分像」
なので、どうしても拒否反応が出てしまうのです。
 
この縛りが、男性は特に強いです。
それだけ、女性とは別の意味で、社会が「男性性」を強く厳格に規定してくるからかな?
断定していいか判らんけど。
けどまあ、社会の要求、は関係してはいると思うし、自分に無理をさせる、というのは、もちろん女性もするんです、すごくするんです、でも、男性のそれとはまた性質が違う気がして、男性のほうが、自分に無理をかけやすく(多分、↑で書いたような「禁止している自己像」が社会の要求により多いからだと思う)、また、無理していることにも気づきません。
 
よく、鬱病は女性が多い、自殺は男性が多い、と言うが、病というサインを出たときに、頭が自分の無理に気づける、くらいには、自分と自分の関係は良好である、というのが女性で、サインを出しても出しても認識してもらえない(認識すること自体を怖れているから)、そこで一気に自殺まで行く、というのが男性、ということでもあるかも知れません。
 
 
ちょっと出かけなければならないので、中途半端だがこのへんでしめようかなあ。
 
ともかく、
・日本社会の弊害は、個人内で、自分と自分の関係が悪いから
・自分と自分の関係をよくするためには事実(現実)を見つめる必要がある
・しかし日本語という言語の性質上、現実を見つめる思考を持つのが難しい
・また、人間のなかには「禁止している自己像」があるために、そこを認識しようとすると強い抵抗が出る
・しかし、自分と自分の関係をよくするには、どうしても自己に分け入らねばならない
 
というようなことです。
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by 6ssorelativo | 2013-02-09 09:28 | 前へ進むということ

日々、潜在意識に操られるのもしんどいですよね。操られないポイントは、潜在意識と対立しないこと。そして潜在意識に負担をかけないこと。そのへんのお話から、前に進むヒントをお伝えします。(Access Code Reading(略称ACR)はキャシー天野さん開発のセラピー法です)


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