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おひさです、何かケータイメールの返信できてない人すみません、じっくり書こうと思ったらそのままになって数日経過、ってのは私のパターンです(だからこれは完全に私の側の問題よん)、これこそセッションで扱ってもらったら何か出てくるんじゃまいか。
 
 
そういや薫さんの「音楽と人」連載のこと書いてないやん。
 
6月号。
表紙が某B-Tで笑った。
 
薫さんですが、タイポが二か所そのままになってて、薫ファンとしてはかなり萌えることができた。
それは新手の関西弁ですかっ!?
とつっこみたくなった書き間違いなど、もう心臓ばくばくしたよね、半分誇張入ってるけど。
 
内容については、メタラーだった友人が、久々に会ったらノイズ方面に行ってて以来会ってない、ってのにワロタ。
そのお友達はたぶん藤井先生(SOFT BALLET)と同じような道を歩まれたのではないでしょうか、関係ないですけど藤井先生の離婚の理由がいまだ気になってしょうがない下世話な私ですよ!
 
って薫さんの話をしているんだった。
 
まあはっきし言って「薫さんなんか大好きだからね!」って感じなんですけど、そうさなあ、前も書いたけどDIRさんについては孤島ツイッタで毎日つぶやいてるからブログに書くことが少なくなっちゃったんだよ。
DIRさんファンのかたは、そうさなあ、今日は「ペルーの薫さん」あたりで検索ひっかかるんちゃうやろか、DIRさんファンじゃないかたは検索することさえもお勧めしないw
ただ毎日毎日DIR EN GREYについてうだうだ言っているだけだから。
 
で、それはいいんですが、薫さんの連載ね。
まあ一番何に心奪われたって、隣のページに載ってるアメショーの写真だね。
何つうかわいい子だろうと。
いやもちろん薫さんもさいこうだよ!
 
 
そういや博士(ドラムのシンヤさん)も連載開始だそうでおめでとうございます。
博士はガチだから。
毎月「Gigs」の発売日もまた忘れんようにしんとかん(名古屋弁)。
 
まあそんなわけで相変らず毎日DIR EN GREY、DIR EN GREYゆうてます。
 
つかさあ、何か思ったんですけど、一時期、私は本気で思っていたんです、
「DIR EN GREYの音楽があったらほかに何もいらん」
 
だからさ、そこに、さらに何か現れたりしたら、たとえそれが「うまいもん食った」でもよ、すげえことだと思うんだよ、だって、私はDIR EN GREYさえあればもうすべてあるんだもの。
それに加えてさらにうまいもん食ったりほかのいい音楽聴いたりともだちと笑ったり誰かの美しさに触れたり
 
それって絶対にすごいことなのだ。
 
DIR EN GREYと私、ってのはミニマムであり同時にすべてある世界であり。
その真空は、私だけのものであり、同時に世界にはそれしか存在しない。
真空は何もないことじゃない、真空はすべてでもあるわけです。
 
 
ああ、何かさ、薫さんさ、薫さんさ、もう今となってはほんとにどうでもいいことだけど、DIR EN GREYがあることで何かが新たに作り出されてっていう、その環のなかに私もいるんだとしたらさ、私は時間を戻して2006年のLoud Parkの楽屋に戻って、当時は顔も知らなかった5人を探して、未来ってやっぱすげえんだよとイミフなことを言って、あなたたちの音楽は私の真空を満たしたんだと言って、あなたたちの音楽は私の真言なのだと言って、京くんとかがきっと「なんやコイツ」って顔して、薫さんはどんな顔していいか判らんくて、でもきっと当時の薫さんはとってもきれいで、私は「うわあ、2011年までこの人のこときちんと認識してなかったなんてアホや」と思って、でも、何がどうしたって、私の時間軸では2011年にならないとDIR EN GREYは今の重要性では現れなかった。
 
 
まあともかく大好きって、もうそれだけだ、もちろん、今日も今日とて!
 
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by 6ssorelativo | 2012-05-15 22:36 | 音楽 | Comments(0)

最近のこと

1.
一度、
「自分はこうだから」と口にしてみると、
ほんとはそんなこと思ってないって、
「こうだから」ってのはこれまで自分で自分にはめてた枠なだけであって、
「ほんとの自分」なんてほんとは「何だっていい」ってのが判る。
 
私は無口だから、
私は感情が激しいから、
私は特殊な音楽しか聴かないから、
私は英語も話すから、
いやいや、
何だっていいよ、
多弁なときも、
クールなときも、
ふつーの音楽聴くときも、
それもまた私であって、
「私」はもっと「全体的」でいい。
 
 
2.
依存でなく、
支え、
というのはこういう感じで。
音楽だけが、
もの言わぬ音楽だけが私のすべてで、
今までは私は結局壊れたまま人と関わっていて、
ああそうだ、
ほんとに誰かとリアルな関係性を結んで愛し合ったことなどない、
愛してると言われても壊れている私は同じ言葉が返せず、
ただ必要とされているということだけで自分の存在価値を確かめ、
確かにあのころは、
いや、
つい最近まで壊れていた、
「好きでもないのに」そんなことできるなんて、
というのは正しい指摘であり、
しかし私は必要とされると安心した、
私に心がなくても。
 
いつだったかまで、
空(くう)で愛してるだの私もそうだの、
あれには関係性がなかったから、
「愛し合って」いたのだろうがあれは関係性ではなかったので。
 
 
3.
背中を押しつける力と、
胸を持ち上げようとする力と、
今等しく働いている、
失敗に背中を押しつけられ、
でも私はやっていけると、
私にはこの音楽があってあの人がいて、
その力が胸を持ち上げようとする、
ふたつの力が拮抗している、
音楽が、
電気のように体を通って、
この音が私を幸せにして、
そして今はそれだけではない、
私は依存でも不安からでも物語にうかされたせいでもなく「私の意志で」誰かを求めていることを自覚しつつある、
人間が、
他人が、
リアルとなって、
過去ではいつもブランクであった「目の前の誰か」「隣にいる誰か」は私が奥底で望んだ顔で姿形で声で具現化されて、
私を「本当に」牢獄から連れ出した、
目の前にいたらブランクになって愛せない故障、
私の故障、
私の心の故障はどこかに行きつつある、
まるでNINE INCH NAILSのようにbroken-to-fixed、
私は健康になったらまた違う世界に行くのだ、
ずっと「健全」だと軽蔑してきた人たちと同じところに行くのだ、
私の病は終るのだ、
私は「普通」になって「まとも」になって人間に生れたことを女に生れたことを初めてきっと祝うのだ、
もう現れたから、
決して現れないと思っていた、
私の故障を受け止め批判してこの故障と傷を自分も半分背負ったのだと言って抱き締めてくれる人が現れたから。
 
Now playing: DIR EN GREY
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by 6ssorelativo | 2012-05-07 23:55 | 散文 | Comments(0)
タイトルのような内容について、自分用日記に書いたので、転載。
 
まずはOsho禅タロットでひいたカードの引用。

13. 変容
禅のマスターは、ただの教師ではない。どの宗教にも教師しかいない。彼らはあなたの知らないことを教え、信じるように求める。というのも、そうした体験を客観的現実として表わす方法がないからだ。教師にしても、それらを知っているわけではない――信じたのだ。彼らは自分が信じたことを誰かほかの人に伝える。禅は信者たちの世界ではない。信心深い者たちのためにあるのではない。それはすべての信仰、不信仰、疑い、理性、心(マインド) を落とし、境界のない自分たちの純粋な存在へと入って行くことのできる、怖れを知らない魂(ソウル) たちのためにある。
だが、それは途方もない変容をもたらす。だからこそ、私に言わせてもらえれば、ほかの者たちが哲学にかかわっているあいだに、禅は変態(メタモルフォシス) に、変容にかかわるのだ。
それこそが真正なアルケミー。卑金属から金へとあなたを変える。だが、その言語を理解しなければならない。あなたの理性の働きと知的な心(マインド) によってではなく、愛にあふれたハートで――。あるいは、それがほんとうかどうか気にすることなく、ただ聴くことによって――。すると、突然、あなたがそれを見る瞬間がやって来る。それは、生涯を通してあなたを躱(かわ) しつづけてきた。突然、ゴータマ・ブッダが「八万四千の扉」と呼んだものが開く。
Osho Zen: The Solitary Bird, Cuckoo of the Forest Chapter 6

解説:
このカードの中心にある人物は、巨大な虚空の花の上に坐り、変容のシンボル――幻想を断ち切る剣、脱皮して若返る蛇、壊れた限界の鎖、二元性を超越する陰陽のシンボルを手にしています。もうひとつの手は、開かれ、受け容れるように、膝の上に置かれています。さらにもうひとつの手は下へ伸ばされ、眠っている顔の口に触れ、私たちが休んでいるときに訪れる沈黙を象徴しています。今は深い手放し(レットゴー) をするときです。あらゆる痛み、悲しみ、あるいは苦況をただそこにあらしめましょう。それは「事実なのだ」ということを受け容れて――。これはゴータマ・ブッダが何年にもわたる探求の後、もうこれ以上自分にできることはなにもないと知って、ついにあきらめたときのその体験にとてもよく似ています。まさにその夜、彼は光明を得ました。変容は死のように、自らの時を得てやって来ます。そして、死のように、あなたをある次元から別の次元へと連れて行くのです。

手放し、ってのは、それに関して何もしない、ってことだ。
文字通り、もう自分の手を放すのだ。
前は全然意味が判ってなかったのだけど。
 
何つか、起ることを起らしめる、って感じなんだろうなと。
手放し、も降参、も。
で、起ることに、最善の対処をするってか。
受身ってんじゃなく、何が起るかな、と醒めてみていて、で、それに対して常に自分がどういう行動してちゃんとそれに責任取ると決めてるのかっていう。
つか、起ることそのものの意思を尊重するってのかなあ。
起ることについてああだったらこうだったらとか言ってんじゃなくて、あ、そう起ったのね、ならば私はこうで、っていう。
 
(中略)
 
基本的にどういう物事に対してもにやにやでいればいいのかなと。 
起る状況に楽しませてもらってるってのか。
さっきの話につながるけど。
 
*-*-*-*-*
 
つか、ふっと思ったけど、「動いてる」なあと。
1~3月って私ばっかじゃなくあらゆる状況そのものと空気全体がカオスだったんだが、4月に入ってからは、「動いてる」感じがある。
そういや、ダイさんがいたく後悔してたUroboros再来だが、あれも2012年の1月でなければ(ダイさんが)あそこまで後悔するようなことにはならなかったと思う。
でもまあそのときそのときの世界(宇宙)全体の流れに影響を受ける、ってのも常にこの世界に属している限りは醍醐味のひとつであって。
何か、その意味では、直接接しなくても、やっぱ一緒にいるなと。
すべての人と事物とな。
 
で、結局自分に見える範囲で「起ってる」ことってのも、そういう、すべての人と事物を含めたものの総和の結果、ってんでしょうか。
だから、自分に見える範囲だけっつったって、それも実はもう世界、宇宙全体の何かが反映されている、総和ってこと、であってな。
だから起ってること、ってのはやっぱその起ってることの意思によって起っている、と。
だから自分にできることってのは、それに「参加」することであり。
Oshoタロットにも「参加」ってカードがありましたが。

*-*-*-*
 
そういや、岡本太郎のありかたってのは、やっぱ常に自分の中心に定まっている、というありかただなあと。
私は、私自身は両極端な立場を経て、結局思想の中身や思想の立場なんてただのフェーズだな、と。
その変遷をみているのがほんとの自分自身で。
必死にこうでなければならない、他人が違う意見を言ったら許さない、みたいなしがみつきってのは、まさにそのまましがみつきであって、それ自体が、しがみつく対象が「他者」であることを証明している、ほんとの自分自身にしがみつくことはできない、ほんとの自分自身は常にここに「在る」ものだから、しがみつくも抱きしめるも何もないのである。
だから思想もほんとのあなた自身から沸き出でてくるものではないのである。

*-*-*-*
 
「何とかしよう」としがみついたとたんに瓦解する、というのはあるな。
状況が在って、起ることが起って、という基本を忘れて、こうあるべき、あるいはもっと本音を探ると「こうでないと怖い、こうでないと自分の傷が癒されない」的な理由でその一点しか見ずがむしゃらになると、もう瓦解、ってか、それが「人間の失敗」である。
マインド、という視点からいけば、「人間の失敗」をするのは、「マインド(思考)の暗い部屋」にいるからである。
自分の思考、が先にあるんでなく、状況が先にあって、そのなかでどう対処してくかってのを最善に考えるのがマインドの役割であって、マインドが世界を牽引しようとすると、ってか、マインドが世界を牽引しようとした結果の惨憺たる状況が現在のこの世界である。
 
で、マインドは男性性であるので。
その人の体が男性であれ女性であれ、今は一度男性性は引退すべきである。
そのとき初めて自分の無限に気づく。
そのあとに、その無限が牽引する先に最善に行き着くようにはどうするか、というときに、マインドが、男性性が活躍するのである。
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by 6ssorelativo | 2012-04-14 22:00 | | Comments(0)
前も書いたが、人間のマインド、思考は真実、真理とはたいがい逆のベクトルを持っている。
それはベースが恐れだからです。
 
現代社会の状態、あるいはそれを作り出した伝統的な仕組みは、真実、真理と対立していると考えてたいがい間違えはないと思います。
 
だからもし手っ取り早く真理や真実が知りたくば、現代社会の仕組みの逆を考えること。
 
ただし、そのとき得られる洞察は知的理解の範疇を超えないので、そこだけは留意が必要です。
(しかし、もし、現代社会のありかたをふっと俯瞰できて、そのときもしその愚かさに笑いが、それは乾いた笑いじゃなく、「人間てww」ってほんとに楽しいような気持ちを含んだ笑いが出るとすれば、それは知的理解の範疇を超えている可能性があります。)
 
今日は時間ないのでこのへんで。
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by 6ssorelativo | 2012-03-23 23:04 | | Comments(0)
さて、Oshoのことを書こうか。
 
私が最初にこの名前を見たのは友達が「Osho禅タロット」というものに言及していたときだった。
3年くらい前か。
 
長いあいだ、いったい何なのか全然判らなかった。
たまに禅タロット(ネットでひける)をひいて、出たカードの文章を読んで、ふむふむ、と思っていた。
当時はすべて「知的」理解が私のゴールであったので、きちんと理解はしていなかった、と言うかいまだに、そしてこれからも、どんどん「あれはこういう意味か」と実体験を伴って理解する瞬間が訪れるのだろうと確信しているが。
 
 
ともかく、Osho、というのが個人名であるということすらよく判っておらず、Oshoのサイトの、禅タロット以外のところもほとんど目を通したこともなく。
 
Oshoがインドの覚者・神秘家である、と知ったのはいつか覚えていません。
ともかく長らく「個人」としてOshoを認識したことがなかった。
 
 
 
私がいわゆる見性というところに到達する下地をならしてくれたのは、Oshoの言葉にほかならない。
 
最初に何らかの探究があって、追い求め続けるものがあって、という、私が生来そういう「求道者」タイプであったことは事実だが、その「求道」の流れはOshoが登場することで大海となった。
 
マインドを落す、自己を去る、水のように低きに流れよ、そういったことは、それまでの私の志向の真逆をいっていた、しかし、それらが真実であるというのが私のハートのアンテナの出した答えであった。
 
 
私は去年自分がおこなった膨大な思索はむだではなかったと思う。
そこで到達した答えのいくつかは、今でも真実だと思っている。
 
たとえば
完璧が存在するならこの世界自体が存在しない
結婚は結婚相手以外の人類すべてへの裏切りである
 
後者については公の場で書いたことはないけれど、今でも真実だと疑わない。
(ただし、特に女性の場合、生活のために結婚しなければならないという現状もあり、その場合は別の話ではある。)
 
面白いのだけど、「真実」に従おうと思うと、たいがいの「人の道」みたいなものには背くことになる。
 
しかし逆に言うと、それはそれだけ「(特に、因習的な)人の道」というののほうが結局「真実」に背いてきた、ということだ。
 
まあ、「人の道」には慈愛等も含まれ、それは真実と異ならないので「人の道」という言葉は適切ではないのかも知れないが、しかし、たいがいの、「社会が歓迎するあるべきありかた」というのは真実の逆をいっていると思って間違いない。
 
ただ、真実、はイコール「正しさ」ではない、ってのもまた……このへんはもう知的理解するところではないです、ただ、知っておけばいいと思う、「正しさ」はマインドの「正しさ」であって、それは「真実」というものとは違う、ということを。
 
その意味では、Oshoの言うことは「正し」くはないかも知れない。
ただ、私自身の、求道的姿勢が元にあった思索の結果得た答えとは近いものが多く、私自身は彼の言葉に触れるのは真実に触れることと同じである。
 
 
 
ところで、去年11月に阿部敏郎さんのブログを知って、過去記事を読み進むうち、「かんながら」という記事を読んで、胸が騒いだ。
 
25年前に、まったく「精神世界系」なものが異端視されていた時代に見性してしまった阿部さんが唯一自分の認識と通じる、と思ったのがOshoの本だったと言う。
 
(ちなみに、↑でリンク貼った記事にあるように、日本がそんなに重要なのかは私は判らない。現状をみると惨憺たるものだと思うが、しかし、極限まで堕ちたときこそが転換のチャンスであるというのもまた間違いなく、今の日本社会は、その転換を前にした、極限まで辛い場所である、と言えないことはないとは思う。また、外で、特に子供たちの言動に注目していると、ちょっと明るい気分になれる。彼らは「辛い」時代に生きる人たちではない、少し違う感じを感じる。観察してみてください。)
 
阿部さんと言えば、最近少し、ほかの精神世界系のブログも見つけたりして読んではみているんだけど、やっぱこういうのも相性だよね。
ほんと、相性ひとつだわ。
同じことを言っていても、相性が合うかどうかでその人の言っていることが入ってきたり入ってこなかったりする。
 
私は現時点ではOshoの思想には大きな関心があり、また、拠りどころにしている面もあるが、それは結局相性、の一言に尽きる、と言ってもいいかも知れません。
 
好きなバンドとかでもそうだけど、今は好き、明日は判らない。
私は好き、あなたがどう思うかは判らない。
 
そういうなかで、私は今、Oshoを紹介する。
 
手始めに、禅タロット
 
彼自身も言っているが、「自分はすべてを破壊する者である」、というのは間違いない。
彼の思想は「新し」すぎて現代社会に従順な人には受け入れるのは難しい。
 
しかしもし、なぜ自分は彼の思想が受け入れられないのか、をひいて観察することができるなら、そこに可能性はある。
 
自分たちの信じる、世界、国家、民族、家族、その他のあらゆるユニットの重要性が、すべて過去に「規定」されたものであり、今ここにある自分自身とは何の関係もないと気づけるか。
 
気づいたら、そして自分の気づいたことに忠実に生きるなら、あなたは必ず周囲から乖離する。
しかし「真実」に生きたいならば道はそれしかない。
私も今その始まりの真只中にいる。
 
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by 6ssorelativo | 2012-03-17 19:31 | | Comments(0)
思ったままてけとーに書いちゃいます。
 
DIRさん(ファンクラブ)会報が届いてた!
 
しょっぱなから薫さんのページで驚く。
本人がおらん。(=本人の写真がない)
おらんけどもしょっぱなの文章で、
「大阪城ホールの楽屋でハヤシライスを食す薫さんの図」
ってのを想像させることで本人の不在をカバーするという、高等技術を見せつけられる。
 
そんな私のこじつけ文章はどうでもいいんですけど、今夕食直後でめっちゃおなかいっぱいなときに「ハヤシライス」とか、キーボードで打つだけでも「うっ」ってなりますね。
 
ところで薫さんがつぶやいてたようにハヤシライスとらっきょうは合わないのか?
らっきょうを食べないので判りません!
 
で、薫さんの言ってた「説得力」の話だけど、同意は同意する、自分まじに
「これから『Dum Spiro Spero』の完全再現か!?」
と身構えたからねw
そう思わせただけでもすごいんでないかい? と思うわけです。
 
けど好き勝手書くと、以前から、薫さんはUroboros再来に際して「過去を振り返ってるわけじゃない」的なことをよく言うなあと思っていた。
 
今回の「説得力」発言もその一部に思えたんだけども、何か、何か、「過去」というコンセプトに関して薫さんの(潜在意識の)なかに書き込みがありそうですがw
 
そんな何度も「過去じゃなくて未来」ってことを言わなくても、いやま、そういう言葉を必要とする人たちや場もいっぱいあるのでしょう、私は新参なので判ってないことのほうが山のようにあるだろうが、しかし、まあ私個人はですよ、いつでも「Dum Spiro Spero」の時間軸にいるってか。
 
「だから安心しなよう薫さん」、みたいな感じでUroboros再来に関する彼の発言を見るたびに思ってたわけですがw
 
京くんのことで「Dum Spiro Spero」という作品が宙ぶらりんになってる状況だという感もないと言ったら嘘になるけども、そのぶんじっくりこの作品と付き合えるなあ、というわくわくも実はあったりして。私は。
 
バンドとしても、そうせざるを得ないわけで、で、私はこの作品とバンドがじっくり付き合わざるを得ない、ってこと自体は「災い転じて~」ってことなんじゃないかなあ、という気もしている。 
 
何つっても"Diabolos"と"Vanitas"をライヴで演ってないんだもの。
この2曲がどうやって生で演奏されることになるのかなあと。
 
まあツアーが中止になったアメリカのファンの人らはとにもかくにもブルーだとは思うんだが。
 
 
バンドっていろいろあるけど、たとえばメンバー脱退とか活動休止とか、いろいろあって、今DIRさんも京くんのことがあるわけだが、しかしそれもまた、「物語」であって、しかもたいへん人間らしい物語であって、まあ私自身は「物語」から距離を置くスタンスをはっきり取ると決めているけれども、けど、バンドとしては、何だろね、人間も体調崩して休まないといけないときがあって。
 
まあ京くんのことはまんま体調崩して、ってことだけれども、しかしバンド全体としても、休むときなのだろうなと。
 
それだけ、「Dum Spiro Spero」が解答を持たない作品である、という意味の示唆のような気もするし。
 
あれはね、前も書いたが、西洋の神がちょこちょこ顔を出している面白い作品です。
東洋の人がロックをやる、というだけでじゅうぶん東西が出会ってはいるけれども、あの作品のなかではちょっと時空が違うところでそれをやってる。

"Dum spiro spero"、"diabolos"、"vanitas"といったラテン語が何だかちゃんと鎮座していて、ってか、そうだな、あの作品のなかでの「西洋」はお行儀がいい。
 
逆に暴れているのは東洋性であり、それがDIR EN GREYならではで面白いんだけど。
 
お行儀がいい、というのは日本人が憧れた西洋、というのともまた違って、たぶんメンバーのなかで、特に震災を経て、揺れ動くものととどまろうとするものが交錯して、とどまろうとするもの、に、(日本人たる彼らの認識する何らかの)西洋性がぴたっとはまったのではないかな、と思います。
 
アラブ革命にせよ震災(地理的にはニュージーランド等も含む)にせよ、激動は今東洋にあって、西洋はそれを見守らざるを得ない。
 
いつも「動」であった西洋が、(中世の落ち込んでいた時期を除いては)ほぼ初めて「静」に転じている時代で、それは彼らが既得権を保持するのに必死だから、というのもあるが、しかしきっとどっかで判っているのだ、これからはどんどん「西洋の限界」を目撃する瞬間が訪れて、そのなかで、東洋がやっと重い口を開く。
 
「Dum Spiro Spero」はその先駆けのような作品のように思います。
 
 
Now playing: Tiziano Ferro/Scivoli di Nuovo
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by 6ssorelativo | 2012-03-14 21:24 | 音楽 | Comments(0)
あ、またブログのデザインを、しっくりくるまでしばしば変えるかも知れないので、すんまへん。
 
 
震災から1年経ったということについては書かないつもりだったんですけど(私には言える言葉がない気がする)、何となく。
 
亡くなったかたについてはやっぱり私には言える言葉がない。
今の私の「世界」観そのままのことを言っても(今の「世界」の「あるべき」からは)理解されると思わないので。
 
ただ、生きてる人たちについては、対象を誰とも限らず(それこそ被災者の人にも限定せず)、よく生き残ってくれた、と。
 
やっぱ生きてるってだけで途方もないことなんじゃないかと。
まあ死んでも途方もない状態はほんとは続くわけですが。(と思う。)
 
何となくですけど、たまには、
うおお、今日朝目が覚めた、すげえ!
歯を磨いた、すげえ!
会社が今日も倒産もせずに存続してる、すげえ!
昼飯無事食べられた、すげえ!
夕飯作った、すげえ!
息してる、すげえ!
近所の犬と目が合った、すげえ!
とか、すべてがほんとは「すげえ」であって途方もないことの一部なんである、みたいなことを意識して一日を過すことがあってもいいかも知れないw
 
すべての本質は、ほんとは「当り前」なのですが、でもしかし同時に、「すげえ」のです。
どっちのスタンスに立つかは、そのときどきで気の赴くままにしたらいいんじゃないかしら、と自分に対しても思うわけで。
それはたとえばたまに聞く、「平凡こそすごい」みたいなことじゃなくて、同時に成り立つんだよ、「当り前」と「すごい」がね。
で、それは、その人が平凡な日々の人だろうが有名人だろうが波乱万丈な人生の人だろうが変らないわけ、みんな「当り前」であって「すごい」という。
 
まあ自分もなかなかと言うかほとんどこの境地には行けなくって、どっかに「社会的に成功してる人コンプレックス」ってのがあって。
 
 
話がずれてきたし腹減ったので退散します。
 
何はともあれ毎日よき日でありますように。
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by 6ssorelativo | 2012-03-11 19:04 | | Comments(0)
狂うのは心地よい
 
狂うのは安易だと去年は言っていたが
これはほんとは心地よい
誰もが笑う覚悟をする
分子としての粒子としての私を定義する音のなかに全面的に入っていく
 
誰もが笑っても私はこれを真言と言う
瞑想も覚醒も知ろうともしなかった時点ですでに私を空(くう)につなげた音
 
真実のほうが先にあった
真言のほうが先にあった
私は何も知らなくてもかまわなかった
(知的)理解も何も
何もないところで
思考の暗い部屋で這いずり回り続けた年月の最後に
光となって現れた音
誰もが笑っても私はこれを真言と言う
「狂った」者の覚悟を持って言う
私はこの音のあるところからやってきた
私の実存はこの音のあるところからやってきた
この音があって初めて私は自分の人生を総括する
すべての意味を消して
すべての物語を消して
この音自体さえも無にかえして
世界が無で満ちる
私はもう存在しない
この音と無を認識する何らかの意識がある
やがてその意識もこの音と無と同じものになる
私は存在しない
私はこの音を聞いていない
私はいない
私はいない
作った者も聴く者もいない
音だけにすべてが帰結する
「 」あなたもいない
最初からあなたはいなかった
音だけがある
作ったときのあなたの意識も
この音の前では無に消える
あなたがいなければこの音がなかったのだとしても
あなたはいない
いるというのは辻褄が合わない
あなたが人間として作ったものを
私は真言と言う
ただの分子としてのただの粒子としての私に還してくれたあなたの音を真言と言う
 
明日にはもうすべて忘れているにしても
 
「 」Diabolos
 
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by 6ssorelativo | 2012-03-08 23:29 | 散文 | Comments(0)
1/22、大阪城ホール公演の感想、本編。
 
 
去年の10月から突如DIR EN GREYのファンに、しかも"Vinushka"がきっかけとなってなった身としては、「Uroboros再来」、なんてイベントはまさに「世界はそういうふうにできている」の立証でしかないわけで。
 
このライヴのアナウンス自体は10月の時点でされてたんだっけ?
忘れましたが、去年10月頭から突如ファンになって、「Uroboros」のDVD買ってきて、
おおお、これを体験しそこなったとは、うおおお
と思っていたんだが、まさに「再来」で、一度は終ったものを、体験できたとは、だからよ、世界はそういうふうにできてんだよw!
 
 
当日に感じたことをがーっと書くけど、"Vinushka"はシンバルのカウントじゃなくていきなり薫さんのギターで入ったってのが感慨深いよねっ、ねっ
ってか個人的にそういう入りかたを待ち望んでたんだよ!
ってかもうまじにこの曲は好きすぎてと言うか特別すぎてと言うかもう説明不能なんで簡単に書いてしまうが狂うかと思ったわ。
彼岸花の映像とか
やばいだろ
 
しかしこう書いているとそのときのことが自分のなかで違う出来事にされてしまう感じがする
やっぱ言葉が人間の行動のなかでは一番まどろっこしくまた簡単に真実を裏切る
 
だから"Vinushka"を生で聴いた、ということに関してはこれ以上書くのはやめよう
 
まあUroboros再来全体の体験自体にも言えるけどね、それは。
言葉で言えるのは、
Uroboros再来というライヴが行われた、バンドとファンが集まった、以上!
だけではあるが。
 
でも言いたいことはあるんだよね。
何だろう?
 
当日の夜にケータイからちまちま書いたけど、そうだな、そういうことかな、「Uroboros」ってすげえ東洋的な作品じゃん。
そのへんのことかな。
そのへんのことなら書いてもあの輝かしすぎた、あるいは私が自分の言葉で決して汚したくない体験を汚すことのないままDIR EN GREYというバンドについて何か言えるだろうか。
 
当日に書いたけど、真理への鍵はたぶんすべて東洋にかためられている。
歴史の長い宗教のすべてはアジア、と言うか、ヨーロッパ人が"east"と定義する場所で興った。
私にはインドも中東もすべてアジアであるという西洋人の感覚がほんとのこと言うとまるで判らないのだが、でも彼ら自身がそう定義するのだから。
自分らの歴史には真理への鍵がないと自ら定義するのだから。
(真理への鍵、という意味以外ならばもちろんすばらしい遺産はあるわけだが。)
 
しかしだからこそいわゆる「スピリチュアル」とか言われるムーヴメントは西洋から波が来たわけでね。
きちんと判ったわけだ、彼らの精神は判ったわけだ、今のままでは絶対にマズイ、ってことがね。 
 
現代日本がここまで社会的に悲惨な状況になったのは、明治以降の「頭脳部分だけ」「思考部分だけ」西洋を取り込んでしまったことに因る。
精神は東洋であるのに、行動様式だけを、思考様式だけを異世界から移植し(ようとし)た結果、ここまで社会が瓦解した。
神の実験は残酷すぎると時に思うのであるが。
 
何度か書いたけど、思考ってのは真実じゃないんです。
言葉が裏切る、というのはつまり思考は裏切る、というのとほとんど同じ意味です。
思考は言葉からできているから。
 
人間は、言葉が話せるから自分らが知的に進化していると思っているが、とんでもない、言葉や思考は幻惑のためだけにある。
 
幻惑、っつったら、そうだよ、それこそ、「Uroboros」のような作品を聴いたりライヴを観たり、そういうときに起るものだと思うかも知れないが、逆だ、ああいった体験こそが真実である。 
 
だから私はどうにも今回のライヴのことは言葉では書けない、と言うか、あのときの真実を否定することになるから、書けない。
 
ゆうべ書いた、
「神は真理への鍵を東洋にかためすぎた」
「京くんを見ていると神と悪魔が同じものだというのがよく判る」
というのは、「(言葉で)語られた」ものではない、あの夜、あの場にいて、感知したことだ。
まあこうやって言葉にした時点で「解釈」という拷問を受けることになる、という命運が、人間のおこないにはあって、だからもう私は自分が(かなり偏った意味で)言葉の人間であるというのが大変めんどくさいのだが。
 
DIR EN GREYの音楽はそのへんのめんどくささを蹴散らすから好きだ。
嫌いなやつは嫌い、判らないやつは判らないでよい。
そういう潔さが貫かれていて、「解釈」というものを最初から小ばかにしている。
できるわけがないからだ。
 
京くんの歌詩ってのは、すまん、語彙貧困でこの言いかたしかできん、彼の詩は、「すごい」、のだが、なぜかと言うと、言葉の否定から入っているからです。
言葉なんぞでは何も語れないことを知っている。
だから通常ではあり得ない単語の組合せを頻繁に行うし、彼の詩を読んで判ることは、
「彼の考えていることは彼にしか判らない」
という事実だけです。
(ただしこれは、ネットでけっこう存在する、DIR EN GREYの歌詩の解釈を試みる、というサイトを否定するものではない。そういった、誰かの書いたものを解釈する、という行為の先に、自らを知る、というとても重要な到達点が隠されているからだ。人間には他者のことは絶対に判らない。他者を解ろうとして実際は自らを知ろうとしているのだ。あなたの世界にはあなたしかいない。)
 
 
まあ、ちょっと、ライヴについて書くと、まさかの「Uroboros」完全再現、っていう。
2010年の、武道館の1日目のDVDを観たときに、
"Vinushaka"の次"凱歌~"って殺す気かwwwwwwwww
と思って、そういうのもいいんですけど、完全再現いうのもアツいよな。
 
結局ふつーの感想も書いてるわしwww
でそ、言葉ってすぐ裏切るでそww
いや、この場合前言を即座に撤回して裏切ってんのは私かww
 
まあともかく、"Bugaboo"は去年の「Age Quod Agis」ツアーのときも聴いたけど、今回はもう桁違いな異世界ぶりってか。
 
"冷血~"も同じツアーのとき聴いてるけど、途中の、めっちゃインド(と言うか総合的東洋)になるところの京くんはまじに鳥肌立ったわ。
後姿ってすげえわ。
 
後姿と言えばどの曲か忘れたが彼の後姿の写真がスクリーンに使われてたけど、ごめん、また言う、絶対に宇宙の鍵は東洋にしかないわww
 
で、だからこそ、明晰さに価値を見出して(それはそれでいい)、西洋言語ばっかりみてきた自分に、うつけ、うつけ、と何度か言っていた、ライヴ中w
 
んで、"凱歌"、"Dozing Green"という……これらを生で体験できたのはほんとにほんとに……ふつーに、信じられないんですよ、これらの曲を生で体験したというのが!
特に"Dozing Green"は、今日(ライヴ翌日)になって、
な、生で聴いたんだよな……
と強烈な感慨が。
 
当日も書いたけど、後半の、「裂けた胸~」のところ、ユニゾンにおけるギターリフだけになるやん、あれがもう好きでたまらんのだけど、あのでかい会場で、あのでかい音で、あそこの部分て京くんは客に歌わすから私の耳にはほんとギターしか聞えんくなって、あのとき確かに私はあのギターのリフと一体化したぞ、あのギターリフになったぞ、私の心つかんで一瞬で変質させてしまうほど強烈だったあのギターリフになったぞ、自らが
 
と、「感覚」だけの存在、みたいになってた自分だが、このあと、普段の、「思考」の存在に戻ってしまった。
"Inconvenient Ideal"のイントロが、パイプオルガンバージョンだったからです。
西洋、なんです。
西洋、は私の頭を思考に目覚めさせる。
いきなり頭がすっきりした。
しかし同時の私の心はここにはないと思う、このままパイプオルガンバージョンだったらどうしよう、と思ってたら、ちゃんとバンドバージョンで演ってくれたからまじによかったw
また、私がDIR EN GREYに出会った意味が私の心の世界に満ちて、本編終り。
 
 
アンコールが、まさか「第二部!」って感じになるとわねえ。
 
「Uroboros」ライヴの主題のようになっていた男性の上半身の写真(京くん? 後ろ姿の写真は彼だと判ったんだが)、それがずっとスクリーンに映っていたが、不意に"狂骨の鳴り"が始まり。
男性の胸が引き裂かれ、「Dum Spiro Spero」を連想させる映像が現れる、それで、"狂骨の鳴り"は、確かに何かを裂くような音だと思う、で、そのままアルバム通り、"The Blossoming Beelzebub"に。
って流れだったんで、
このまま「Dum Spiro Spero」も完全再現か!?
とたいへんむしのいいことを期待した私ww
 
 
ところで私は"Diabolos"が宇宙の果てより好きなんですけど。
(つか宇宙とかいろいろ言うけどDIRさんの音楽に対する気持ちは表現のしようがないんだよww)
 
ライヴ終ってから、スクリーンに映った
The continuation of that scary dream
DUM SPIRO SPERO

っての、翌日に"Diabolos"を音源で聴いて、
「怖い夢の続き」
というイントロの歌詩を聞くまで、前日スクリーンに映った英語がこの歌詩のことだって気づかなかったYO!
 
"Vanitas"と"Diabolos"は「Age Quod Agis」ツアーでは演奏されてないけど、終演後のSEで"Vanitas"のインストバージョンが流れたり、さっき書いた"Diabolos"の歌詩が流用されたり、これらの曲の要素がちゃんと配置されてたってのが嬉しいね。
 
ただ、ダイさんがインタビューで言ってたように、「DIR EN GREYの未来」ってとこからいくと、最重要ポイントは"流転の塔"だと、私も思ってる。
まあ首領の薫さんがそう思ってないのかも判らんが。

 
まあともかく、個人的には、"Dozing Green"もハイライトだったが、二度目のアンコールで"The Final"がきたってのは、もう私の全存在がふっとんだと言ってよいww
「"The Final"をライヴで聴く」、というのは見果てぬ夢のひとつであり、うをおおおお実現した、言葉にならん、もう死んでもよい、まじにまじに。
 
 
……と言うわけで、何はともあれ、前のアルバムの再来イベントのために、みんなが集(つど)ったってのが嬉しい
集(つど)った、って感じは、トシヤさんに対して一番感じたな
理由はない
 
 
いずれにせよ、これからDIR EN GREYはさらにすごいことになっていく
もちろん日本以外の場所でも
 
理由は簡単だ
真理はここにある
 
此処が真実だ-This is where the truth is
-"Vinushka"

 
(ライヴのタイトルが"This~"でなく"That's where the truth is"になってたのは判ってる。でもDIR EN GREYは"This is where the truth is"と言い切れる。そういう位置にいる人たちは確かにこの世にいる。そういう位置にいるDIR EN GREYに何かを見出した人たちは、真理にとても近いところにいる。そしてそれは別に知的理解をしなくてもいいことなのである。)
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by 6ssorelativo | 2012-01-23 22:23 | | Comments(2)

走り書き

ウロボロス再来、走り書き

いや~、vinushka始まったときまじ狂うかと思ったわ

自分的一番のハイライトは、Dozing greenの、裂けた胸~の二回目、ギターだけになるやん、あそこだよね、一瞬確かに昇天したと思うわ

あとはイミフな箇条書き

神は真理への鍵を東洋に固めすぎた

京くん見てると神と悪魔が同じものだということがよく判る


にしてもあのまま第二部と称してdum spiro speroも完全再現すりゃよかったのにな
メンバーからは殺す気かと言われそうだが

うをー言いたいこといっぱいある

わたしゃともかくdum~が一番好きだ

ウロボロスは確かに怪物で、あっちの世界、ほんものの宇宙からそのまま抽出した音楽だが、dum~がよりスリリングなんは、西洋の神がちょこちょこ顔を出してるからです

と書いて、自分で何を言っているのか判らない

誰か解釈してわしに教えてくれ、と言うかどうやったら自分の行くべきところに行けるだろう?

ともかく改めてとんでもないものに出会ったと思う
ディル・アン・グレイの音楽は人間のものではない
本人らも何であんなものが出てくるのか判らないと思う

自分で自分の言ってることの根拠が判らない

腹ごしらえしてこ ノシ
 
→「Uroboros」再来、本式の感想文(?)はこちら
DIR EN GREY、Uroboros再来~That's where the truth is
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by 6ssorelativo | 2012-01-22 22:35 | 音楽 | Comments(0)

日々、潜在意識に操られるのもしんどいですよね。操られないポイントは、潜在意識と対立しないこと。そして潜在意識に負担をかけないこと。そのへんのお話から、前に進むヒントをお伝えします。(Access Code Reading(略称ACR)はキャシー天野さん開発のセラピー法です)


by 6ssorelativo